音のある部屋に、人生が響く

――建築の現場、技術開発、大学、そして自邸に息づく人生の物語――
榊住建で家を建てた人の人生をたどると、そこには一軒の住まいだけでは語りきれない時間があります。どこで生まれ、どんな町で育ち、何に心を動かされ、どんな仕事に向き合ってきたのか。そして、その人がどのように暮らし、何を大切にしてきたのか。住まいの奥には、その人自身の歩みが静かに積み重なっています。
今回お話を伺った竹林さんの人生は、建築と深く結びついています。戦後間もない時代に生まれ、幼い頃に浦和へ移り住み、高校時代に見た東京オリンピックの建築に衝撃を受ける。早稲田大学で建築を学び、清水建設へ進み、現場、設備設計、技術開発、研究所、そして大学での教育へと歩みを重ねてきました。
それは華やかな意匠建築家としての道ではありませんでした。竹林さんが見つめてきたのは、建物の「形」だけではありません。建物をつくる人のこと、建物を使い続けるための技術のこと、そして建物が長い時間の中でどう維持され、どう次の世代へつながっていくのかということでした。
ご自身で設計した住まいには、その考え方が静かに息づいています。そして家の一角には、父から受け継いだオーディオの世界が広がっていました。建築と音、技術と暮らし、仕事と家族、そして住み続けるということ。竹林さんの人生をたどると、一軒の家が、その人の記憶を受け止める場所であることが見えてきます。
第一章:畑と水田が広がっていた、幼い日の浦和
竹林さんの幼少期の記憶の多くは、浦和の町にあります。家の前には畑があり、少し南へ下ると一面の水田が広がっていた時代。現在の北浦和周辺からは少し想像しにくい、のどかな風景がそこにはありました。
竹林さんが生まれたのは、茨城県の真壁という町でした。筑波山のふもとにある、祖父が住職をしていたお寺です。戦争中、東京の家が焼け、家族は親戚を頼ってその寺へ疎開し、そこで終戦を迎えました。
「茨城県の真壁っていうところで、祖父が住職をやっていた寺が筑波山麓にありまして。そこに疎開していたんです」
父はもともと農林省に勤めていましたが、戦後、思うような仕事ができなくなり、親戚が関わっていた歯車加工会社との縁で、家族は浦和へ移ります。竹林さんが浦和へ来たのは3歳ぐらいの頃。茨城での記憶はほとんどなく、幼い日の原風景は浦和にあります。
「幼稚園か小学校一年ぐらいから、ずっとここですね」
当時の北浦和周辺には、麦畑やさつまいも畑があり、少し下ると水田が広がっていました。一方で、北浦和駅へ向かうあたりには文教地区の雰囲気もあり、現在の北浦和公園、美術館のあるあたりには、かつて旧制浦和高校がありました。
「ここは、あまり変わっていないんですよ。ただ西側はずいぶん変わりましたね」
大きく変わったのは、埼京線の開通以降でした。子どもの頃に見ていた畑や水田は姿を消しましたが、それでも竹林さんの中には、その時代の風景が残っています。
子ども時代の竹林さんは、どちらかというと病弱で、両親を心配させることもあったそうです。三人きょうだいの末っ子で、親の心配をかけない、比較的おとなしい子どもだったと振り返ります。
「病弱で、両親はずいぶん心配していたと思います。でも、それ以外は親の心配をかけない子だったと思いますよ」
畑と水田のあった浦和の風景、家族の暮らし、少しずつ変わっていく町並み。竹林さんにとって浦和は、幼少期の記憶があり、家族の歴史があり、やがて自ら設計した住まいを建てる場所でもありました。
第二章:東京オリンピックが、建築への道を開いた
竹林さんが建築の道に進もうと思ったきっかけは、高校2年生の時にありました。1964年、最初の東京オリンピックの年です。この時、竹林さんは丹下健三が設計した代々木の国立屋内総合競技場を目にします。吊り屋根の美しい曲線、日本の戦後建築を象徴するような力強さ。それは高校生だった竹林さんに、強烈な印象を残しました。
「丹下健三さんがつくった代々木のオリンピックの建物が、ものすごく鮮烈だったんです。こういう素晴らしい作品ができるなら、ぜひ建築に進みたいと思いました」
それまで竹林さんは、自分には美術的な感覚があると思っていました。美術の成績もよく、ものを形にすることへの関心もありました。建築なら、自分の感覚を生かせるかもしれない。代々木の建築を見た時、その思いは確かなものになりました。
当時、建築界には憧れの存在がたくさんいました。丹下健三、吉阪隆正、菊竹清訓、前川國男、そして若い世代の建築家たち。戦後日本の建築が力を持ち、世界へ向かって開かれていく時代でした。建築は、社会の未来を描く表現でもあり、高校生の竹林さんにとって、それはまぶしい世界だったはずです。
竹林さんが進学したのは、早稲田大学の建築学科でした。早稲田の建築教育は、意匠設計の力を強く重視する場でした。建物をどう美しく構成するか、空間をどう考えるか。図面や模型、エスキースを通じて、学生たちは自分の感覚を問われます。
2年生になると、毎週のようにエスキース課題が出ました。それは単に設計の練習ではなく、自分に建築家としての美的センスがあるのかを、自分自身で見極めるための訓練でもありました。竹林さんはそこで、世の中の広さを知ります。
「逆立ちしてもかなわないような人がいるんですよね」
自分には美術的なセンスがある。高校時代までは、そう思っていました。しかし大学には、さらに上をいく才能を持った学生がいました。感覚の鋭さ、造形の力、表現の強さ。そういうものを目の当たりにした時、竹林さんは、自分がこの世界で勝負していくことの難しさを感じます。
もちろん、建築には別のアプローチもあります。論理的に考え、技術的に組み立て、社会の仕組みの中で建物を考える道もあります。けれど当時の早稲田建築の中心は、やはり意匠でした。
「こういう連中と勝負するのは、ちょっと辛いなと思いました」
その感覚は、挫折ではありません。むしろ、自分の向き不向きを冷静に見極めるための大切な経験でした。華やかな建築家になることだけが、建築に関わる道ではない。竹林さんは、そのことを少しずつ考えるようになっていきます。
大学で竹林さんの進路を変える出会いがありました。尾島俊雄先生。都市環境を専門とする先生でした。当時、建築の世界で都市環境を扱う研究は、今ほど一般的ではありませんでした。建築単体の意匠や構造ではなく、都市全体の環境をどう考えるか。地域冷暖房、ヒートアイランド、緑地、都市設備。建物と都市、技術と環境をつなぐ分野です。
竹林さんは、その考え方に新鮮さを感じます。
「都市環境というのをやる先生は、当時の建築界では少なかったんです。それが非常に新鮮に感じられました」
意匠の才能だけで競うのではない。技術や論理、環境への視点を通して、建築に関わることができる。それは竹林さんにとって、自分の進むべき道を見つけるきっかけになりました。
大学院では、都市設備や地域冷暖房、ヒートアイランド現象などに関わる研究が行われていました。竹林さんの同期にも、都市設備を研究する人、ヒートアイランドの数値解析や調査を行う人がいました。その一方で、こうした分野は行政や大きな社会システムと関わるため、すぐに仕事として形になるものではありませんでした。大学の研究としては重要でも、民間企業の中でどう生かすかは簡単ではなかったのです。
それでも竹林さんは、この道に可能性を感じていました。意匠の華やかさではなく、建築を支える環境や設備の視点。この選択が、後の仕事につながっていきます。

第三章:ものづくりの主役は、職人さんたちだった
大学院を終えた竹林さんは、清水建設へ入社します。当初から、設備設計や技術開発への関心がありました。大学院時代、GEが日本に進出し、ヒートポンプを普及させるためのアイデアコンペを実施したことがあります。竹林さんは仲間とそのコンペに参加し、一等賞を獲得しました。
「設備的な分野や技術開発的なことが、自分には向いているのかもしれないと思いました」
入社面接でも、そのようなことを話したそうです。その結果、将来的には設備設計に進むことになります。しかし、清水建設に入って最初に配属されたのは、現場でした。施工会社に入ったのだから、まずは現場を経験しなさい。そう言われ、約1年、現場に出ることになったのです。
竹林さんが配属されたのは、茗荷谷の高級マンションの現場でした。各住戸で設計変更を受け付けるような、非常に手の込んだ現場です。内装の仕様も一邸ごとに異なり、造作大工をはじめ、多くの職人が関わっていました。竹林さんは、鉄筋の担当から始まり、躯体工事、内装関係へと関わっていきました。現場監督として、職人たちと向き合いながら、建物ができていく過程を体で覚えていきます。
この経験は、後になって竹林さんの人生に大きな意味を持つことになります。現場に出て、竹林さんが最も強く感じたこと。それは、実際に建物をつくっているのは職人さんたちだということでした。
ゼネコンの社員が建物をつくっているように見えるかもしれません。設計者や現場監督が中心にいるように見えるかもしれません。しかし実際に手を動かし、材料を扱い、ものを形にしているのは、それぞれの職人です。
「我々は主役ではないんです。職人さんたちが、いかにやりやすく、最高の腕をふるえるような環境をつくるか。それが係員の役目なんだと分かりました」
この気づきは、竹林さんの仕事観の原点になりました。自分が前に出るのではない。自分がすべてをやるのでもない。力を持っている人が、その力を発揮できるようにする。そのために準備し、整え、支える。それは現場だけの話ではありませんでした。
後に設備設計へ移っても、技術開発へ進んでも、管理職になっても、竹林さんの考え方は同じでした。部下が力を発揮できるようにする。技術者が考え、動ける環境をつくる。方向性を示しながらも、主役は実際に手を動かす人たちである。現場での1年は、決して長い時間ではありません。けれど、竹林さんにとっては、その後の人生を支える大切な時間でした。
第四章:設備設計から技術開発へ。建物を支える技術を追って
建物の快適さは、目に見えるデザインだけで決まるものではありません。空気の流れ、熱の扱い、設備の仕組み。そうした見えにくい技術が、建物の使いやすさや心地よさを支えています。現場での経験を経て、竹林さんは設備設計へ移ります。
当時、清水建設の中でも建築本部は本流でした。そこから設備設計へ移ることに対して、周囲からは「本当に行くのか」と言われることもありました。それでも竹林さんには、やりたいことがありました。
設備設計では、集合住宅、ホテル、事務所、物販施設、工場など、さまざまな建物に関わります。特に半導体工場のクリーンルームなど、設備の技術が重要になる建物にも携わりました。一方で、竹林さんは常に技術開発に関心を持ち続けていました。会社に自己申告を出す時も、技術開発的な仕事をしたいと書き続けていたそうです。
やがて、その思いは少しずつ形になります。ハウス55への関わり、エアドームの建築基準に関する検討、蓄熱技術の開発、床から空気を吹き出す空調方式の開発。竹林さんは、設備設計の枠を越え、建築と技術の間をつなぐ仕事に関わっていきました。
エアドームでは、送風機による圧力で屋根の剛性を保つ仕組みが、建築基準法上どのように扱われるかが課題でした。構造だけでなく、設備が建物の成立に深く関わるため、設備部会のメンバーとして基準づくりに関わりました。
蓄熱技術では、夜間電力を活用するための技術開発が求められていました。水蓄熱では難しい小規模ビルに対して、新しい方式を考える。電力会社とゼネコンが関わる、大きな技術開発の流れの中にいました。
さらに、全面床吹出し空調の開発にも携わります。OAフロアを活用し、床全体から空気をじわっと吹き出す仕組み。従来の空調では、天井に吹出口を設けることが一般的でした。しかし床から空気を出すことができれば、天井のデザインはより自由になります。この考え方は、一部の設計者にも強い関心を持たれました。
「天井のデザインが自由になる。これはいい、という話になったんです」
建築の意匠を直接つくるのではない。けれど、設備の工夫によって、空間の自由度が変わる。技術は、目に見えにくいところで建築の可能性を広げていきます。竹林さんの仕事は、建物を美しく見せることではなく、建物を快適に、合理的に、長く使えるものにする技術を考えることでした。
そこには、学生時代に意匠の道だけではない建築の可能性を見つけた竹林さんらしい歩みがありました。
第五章:新築だけでは見えない、建物にかかる時間と費用
建物にかかる費用は、建てる時だけではありません。使い続ける時間の中で、修繕や更新、点検、管理の費用が少しずつ積み重なっていきます。竹林さんの仕事の中で、特に大きなテーマとなったのが、建物の維持管理でした。
技術開発の世界で仕事をするには、対外的にも学位が必要になる。そう言われたのは、竹林さんが39歳の頃でした。そこから恩師に相談し、研究テーマとして見つけたのが、建物の維持管理です。当時、維持管理は建築の学術分野として、まだ十分に注目されていたわけではありませんでした。
そんな時、竹林さんは大きなデータに出会います。ある銀行の本店ビル、そして保険会社のビル。いずれも竣工から解体直前までの修繕・改修の記録が残っていました。いつ、どこを、何のために、いくらかけて工事したのか。金融機関らしく、稟議書や記録が丁寧に残されていたのです。
「これは僕らが一番欲しかったデータでした」
段ボールで十数箱にもなる資料をもとに、学生たちにも協力してもらいながら、データを入力し、分析していきました。研究には数年がかかり、竹林さんは45歳で学位を取得します。その研究を通じて見えてきたのは、建物にかかる費用は新築時の建設費だけではないということでした。
建物は、竣工してからも費用がかかります。修繕、改修、更新、運用。いわゆるライフサイクルコストです。氷山にたとえれば、海の上に見えている部分が建設費。水面下には、長い年月にわたる維持保全費や運用費が隠れています。
「建物は、きちっと維持管理すれば、一世代、二世代は間違いなく使える。そういう確信がありました」
竹林さんは、建設会社は新築工事だけでなく、建物が完成した後の維持管理にももっと目を向けるべきだと考えました。建物にどのような部材や設備が使われているのか、いつ、どこを、なぜ改修したのか。そうした情報を記録し、管理していけば、建物を長く使うための判断ができます。
この視点は、住宅にもそのまま当てはまります。家は建てた時が完成ではありません。雨漏りがないか、外壁や屋根は傷んでいないか、設備は更新時期を迎えていないか。記録し、点検し、必要な時に手を入れることで、家は長く生き続けることができます。
榊住建が大切にしている定期点検や家守りの考え方にも、竹林さんの歩んできた維持管理の思想と通じるものがあります。建物を長く使うこと。そのために、建てた後の時間を見つめること。それは、竹林さんが仕事を通じてたどり着いた、建築への深いまなざしでした。
第六章:経験を伝えるため、大学へ
清水建設で定年を迎えた後、竹林さんは大学で教える道へ進みました。当時、清水建設では定年後も一定期間、良い待遇で働き続けることができたそうです。しかし竹林さんは、少し働いてみて、会社の中での自分の役割が変わっていくことを感じます。
人事権がなくなり、若い人たちに何かを伝えようとしても、現役時代と同じようにはいかない。自分自身の研究を新たに始めるという気持ちも、以前ほど強くはない。そんな時、大学教員の公募を見つけます。
仙台にある私立大学(東北学院大学)で、設備系の教授を募集していました。当時、その学科は土木系の色合いが強く、建築系を強化しようとしていました。竹林さんは応募し、採用されます。大学で教えるにあたって、竹林さんには伝えたいことがありました。
「建築は経験工学の典型だと思うんです。理論に基礎はあるけれど、実務で必要なのは経験の部分なんです」
建築は、教科書だけで成り立つものではありません。現場では、図面通りにいかないこともあります。人が関わり、材料があり、天候があり、工程があり、予算があります。設計者、施工者、職人、施主、管理者。多くの人の関係の中で、建物はできあがります。
学生たちは、ゼネコンがどのような組織なのか、建設業がどのように成り立っているのかを、まだよく知りません。竹林さんは、自分が経験してきた現場や技術開発の話を、次の世代へ伝えたいと考えました。
建築の授業で伝えるべきことは、計算式や図面の描き方だけではありません。職人さんがどう仕事をしているのか、施工会社の中で設計と現場と技術開発がどのようにつながっているのか、建物は完成後にどのような時間をたどるのか。竹林さんは、そうした実務の感覚を学生に伝えようとしました。
その後、芝浦工業大学でも特任教授として、卒業研究や授業を担当します。音環境や騒音評価に関わる実験・実測も行いました。音の問題は、住宅でも重要です。人によって感じ方が違い、数値だけでは解決できないこともあります。規定値以下だから問題ない、というだけでは、人の不安や違和感は消えません。
実際、マンションや住宅の音の相談では、測定上は問題がなくても、住んでいる人にとっては気になって仕方がないというケースがあります。音は、物理的な現象であると同時に、人の感覚や生活の状況とも深く関わっています。
竹林さんは、そうした人間の感覚も含めて、建築を見てきました。建築は、性能だけではない。けれど、感覚だけでもない。数値と経験、技術と暮らし、その両方を見つめることが必要なのです。それは、大学で学生に伝えてきたことでもあり、竹林さんが仕事を通して学び続けてきたことでもありました。
第七章:父から受け継いだ音の世界と、自ら設計した住まい
竹林さんの住まいで、ひときわ存在感を放っていたのが、オーディオの部屋です。大きなスピーカー、複数のアンプ、音源を処理する機器。高音、中高音、中低音、低音、超低音と、音域ごとに分けられたシステムが整然と配置されています。
音の世界は、竹林さんにとって長年の趣味であり、父から受け継いだものでもあります。
「父がオーディオ好きだったんです。子どもの頃からアンプを作ったり、スピーカーを茶箱に入れて作ったりしていました」
父は器用な人で、アンプも自作していたそうです。その一部は、今もオーバーホールして使っています。竹林さん自身も若い頃から音に親しみ、現在のシステムにも、音を細かく分けて調整し、空間全体で鳴らすための工夫が詰まっています。
ただ音が出ればよいのではありません。どう鳴らすか、どう調整するか、どの音域をどのスピーカーに受け持たせるか。その考え方には、空気や熱を制御し、人が快適に感じる環境をつくる建築設備の仕事にも通じる緻密さがあります。
清水建設時代、仕事には大きなストレスもありました。そんな時、竹林さんはこの部屋で音楽を聴き、心のバランスを取っていたといいます。
「昔は、家族がいない時に大きな音で聴いていました」
そして、この音の世界を受け止めているのが、竹林さん自身が設計した住まいです。もともとこの土地には古い家があり、結婚し、子どもが生まれたことをきっかけに、新しい家を計画することになりました。
設計は自分で、施工は榊住建へ。間取りは竹林さん自身が考え、素材や細かな納まりには、当時関わっていた住宅開発の経験や、モデルハウスで見た仕様も反映されています。
「間取りは自分で考えました。材料や細かいところは、いいなと思ったものをお借りして、初代の社長にお願いしました」
暮らし始めてから、家は少しずつ変化していきました。最初は絨毯敷きだった床も、子どものアトピーをきっかけに、黒いコルクタイルへ張り替えました。年月とともに表面は擦れ、色も変わりましたが、今ではその変化も味わいになっています。
「剥げたら剥げたで良かったんですよね。味が出て」
住まいは、新築時の美しさだけで評価されるものではありません。人が暮らし、家具が置かれ、床が擦れ、少しずつ家族の時間が刻まれていく。薪ストーブのメンテナンスや薪の入手も含め、手を入れながら暮らすことそのものが、家を持つということの一部なのだと感じます。

エピローグ:暮らしながら、家はその人らしくなる
竹林さんの話を聞いていると、建築という言葉の意味が少し広がっていきます。建築は、かっこいい形をつくることだけではありません。新しい建物を建てることだけでもありません。誰がつくるのか、どう使うのか、どう維持するのか、どう直すのか。そして、その建物の中で、人はどんな時間を過ごすのか。そうしたことまで含めて、建築は暮らしとつながっています。
今、竹林さんは自ら設計した家で、音楽を聴き、映画を楽しみ、薪ストーブのことを考え、床の風合いを眺めながら暮らしています。家は、建てた瞬間に完成するものではありません。暮らしながら少しずつ変わり、手を入れながら育っていくもの。
新築の時の美しさ、仕事に疲れて帰ってきた夜、父から受け継いだ音、床の傷、設備の更新、薪の匂い、そして、これから先の暮らしをどうするか考える時間。そうしたすべてが積み重なって、一軒の家は、その人の人生を受け止める場所になっていきます。
竹林さんの住まいには、建築を長く見つめてきた人の考え方が宿っています。華やかではなくても、確かなもの。目立たなくても、暮らしを支えるもの。つくることも、使い続けることも。榊住建が家づくりで大切にしている「建てた後の時間」にも、その考えは通じています。
一軒の家の奥には、そこに暮らす人の時間があり、仕事があり、家族があり、受け継がれてきた記憶があります。そのことを、竹林さんのお話を通して改めて感じることができました。
竹林さん、貴重なお話をお聞かせいただき、ありがとうございました。
