砲丸投げから障害者雇用まで

地域とつながる小さな居場所──三角カフェの誕生
「私が障害者雇用を始めたのは、11年前なんです。
それまで、正直、障害のある方と接点って全然なかったんですよ。
でも、雇用を始めたら、街にいる障害のある人たちが、自然と目に入るようになったんです。
妊娠中って、妊婦さんばっかり目に留まるじゃないですか? あれと同じ感覚です。」
何か、うちでできないかな。
そう思って、始めました。
「車で送迎して、重度の方たちに来てもらって、一日ここで過ごしてもらう。
生産活動はあまりせず、高齢者のデイサービスみたいに、身体や心の機能を落とさないようにする。
当時、浦和にはそういう施設がほとんどなかったので、『これはうちがやらなきゃ』って。」
始めてみると、思った以上にできることがたくさんあることに気づきました。
「重度でも、やればできることがいっぱいあるじゃん!って思ったんです。
それなら、お菓子作りをやろう、働く場を作ろうって思って、B型事業所も始めました。」
でも、また次の疑問が出てきました。
「うちで働いてる子たちは、税金を払って社会に貢献してる。
でも、B型に来てる人たちは、支援を受けて生活してる。
同じ二十歳なのに、どうしてこんなに違うんだろうって。」
そこで見えてきたのは、「親」の存在でした。
「親が、どれだけ子どもに自立を促しているか。
甘やかしすぎないで育てているか。
それがすごく大きいって気づいたんです。
私も親だから、他人事じゃないなって。」
そしてさらに、グレーゾーンの子たちの問題にも向き合うことになります。
「重度の子には学校も支援が手厚いんだけど、グレーの子たちは一人で何とかなると思われて、けっこう放置されがちなんです。
でも、ちゃんと支援すれば就職だってできる。
学校でも家庭でもない、そんな場所を作りたいと思って、実家の一階で『ステップ・モモ』を始めました。」
6歳の子どもから高齢者まで、支える仕組みが一通りできた頃でした。
横山さんは、地域の“見えない困りごと”にも気づくようになります。
「このビルにピンポンって訪ねてくる人たちは、困ってることを表に出してくるから、救いやすいんです。
でもね、実は、表には出さない人たちがいっぱいいるんですよ。
学歴も高くて優秀だけど、2年でリストラされて引きこもってる人とか。
家庭内暴力とか、夫がリストラで引きこもってることを誰にも言えない奥さんとか。」
表面上は何も問題ないように見せているけれど、実は苦しんでいる。
そんな人たちが、ふっと本音をこぼせる場所を作りたい――。
「たとえば、毎日カフェにお茶を飲みに来て、3年くらいしたら、
『実はね、うちの夫、10年前から引きこもってるの』ってぽつりと打ち明けられるような。
そんな場所を作りたかったんです。」
そうして、『三角カフェ』は生まれました。
ひらかれた場所を目指して──小さな工夫から生まれる地域のつながり
「私、結婚して鶴見に住んでたんですよ。
鶴見って、ほんと下町で、プライバシーがないっていうか、プライドがないっていうか。
隣の旦那さんが出て行ったとか、もう全部オープンで(笑)。
子どもが1万円持ってコンビニに来たら、すぐPTAから電話がかかってくるんです。
『あの子、ちょっとおかしいよ』って。」
その子のお母さんが、実は家を出て行っちゃってたことも、すぐ地域で共有されていく。
そして、子どもたちが悪さをすれば、近所の大人たちがみんなで叱る。
親も、それに文句ひとつ言わない。
「そういう場所だったんですよね、鶴見って。
だから、私は思うんです。浦和の人たちも、もうちょっと楽に生きられたらいいのにな、って。」
鶴見では、障害のある子もない子も、一緒に地域の運動会やお祭りに呼ばれます。
「地域の人たちが、『おいでよ』って声をかけてくれるんです。
だから、うちの子たちも、みんなから『大きくなったね〜』って声をかけてもらえる。」
そんな鶴見の空気を、ここにも少しでも持ち込みたかった。
それが、この場所づくりの原点にありました。
カフェを作るとき、最初は車が8台停められる設計にしていました。
でも、ふと気づいたんです。
「これじゃ、車が壁になっちゃうなって。
私、ここで儲けようと思ってるわけじゃない。
もっと、人と人が見える場所にしたいって。」
だから、駐車場は4台分だけに減らしました。
そして、小学校に面した側には、森のような小さなお庭を作ろうと決めました。
「お庭側には、テイクアウトできる小さな窓もつけたんです。
ソフトクリームとか、ピザとかを、こかげで食べられるようにして。
お母さんたちや、障害のある子たちが、気軽に外で過ごせたらいいなって。」
カフェの中に入るハードルが高い人も、外でちょっと立ち寄れる。
そんな場所になればいいなと、マルシェやキッチンカーも呼ぶようにしました。
目の前が小学校だから、いつか子ども食堂もやりたいと夢も広がっています。
そして、もうひとつ。
支援学校を卒業した子たちのために、運動の機会も作りたかったんです。
「彼らはね、学校を卒業すると活動量がガクンと減ってしまって。
だから、午前と午後に1時間ずつ散歩するようにしてたんです。」
そんなとき、小学校で「防犯ボランティア」の話を聞きました。
街に人が歩いていないと、空き巣や犯罪が起こりやすくなる。
それなら、うちの子たちの散歩を、地域の防犯パトロールにしちゃえばいいじゃないか――。
「今は、防犯パトロールって名目で、毎日みんなで歩いてます。
スタッフたちも、『いってらっしゃい、パトロールお願いします!』って声をかけるようになりました。」
まだ始めたばかりだけど、何年も続けていけば、
「あ、アトリエももさんが地域を見守ってくれてる」って、思ってもらえる日が来るかもしれない。
そんな未来を信じて、一歩ずつ進んでいます。
砲丸投げと地域へのバトン──母から受け継いだ“支える力”
「私ね、実は中高と砲丸投げの選手だったんです。
体重は82キロあって、関東大会まで行きました。
すごいでしょ?」
でも、そこにたどり着くまでは、決して平坦じゃなかった。
「私、旧姓が小川っていうんですけど、もうね、いじめられたんですよ。
『オブ』『百貫デブ』って呼ばれて。
でも、砲丸投げを始めて強くなったら、だんだん言われなくなった。
『できる』って、すごいんですよね、人の目を変えるから。」
そんな私の母は、当時では珍しい女性議員。しかも共産党。
とにかく、ものすごいエネルギーの人でした。
「小学校3年のときに、母が議員になってね。
街宣車が私の後ろをずーっとついて回るんですよ。
それが怖くて、警備員まで雇ったくらい。
そんな時代だったんです。」
共産党ってだけで、偏見もすごかった。
母は、「小川は6本線で書けるから、誰でも書ける、選挙に強い名前だ!」って、妙な自信を持ってたけど(笑)。
選挙のときは、私たち子どもにも役割があって。
「9時、1時、5時に投票所に行って、大きな声で
『小川の娘です!今日は一日お世話になります!』って叫ぶんですよ。
そうすると5票は取れるって(笑)。」
でも、そんな母の生き方が、私はずっと嫌だった。
「中高のころなんか、毎日『あんたのおかげで人生狂った!』って心の中で思ってました。
赤旗、赤旗、共産党、共産党って。
22歳で就職活動したときも、興信所が全部入るんです。
親が共産党だってだけで、内定取り消し。」
耐えられなくて、社長宛に手紙を書きました。
「『私にそんなレッテル貼るような企業、こっちから願い下げだ!』って。
もう、プンプン怒りながら。」
でも、当然、就職先はなくて。
大学に残って事務をしながら、夜は学校に通って教員免許を取って。
2年半、伊那学園総合高校で教壇にも立ちました。
そんな私が、のちに自民党の代議士の息子と結婚するっていうのも、なんだか皮肉な話ですよね(笑)。
***
この場所とのつながりも、実は母がきっかけなんです。
「このビル、もともとはタイル屋さんの独身寮だったんです。
前の道を渡ったところに、ガソリンスタンドがあって。
そこの社長さんと、母が仲良しでね。」
ビルが競売にかかっていると聞いて、母が社長さんに「買ったほうがいい」ってすすめた。
そのご縁で、このビルは手に入りました。
「でも私は鶴見に嫁いでたから、ここの地域には全然思い入れがなかったんですよ。
生まれただけで。
まさか母の後を継いで社長になるなんて、思ってもみなかった。」
***
母から地域の大切さを教えられたのも、ある出来事がきっかけでした。
「10年くらい前、ガソリンが高騰したときがあったでしょ。
それで、送迎の車のガソリンをセルフスタンドで入れるように変えたんです。
そしたら母が怒って、呼び出されて。」
『なんで地域のガソリンスタンドで入れないんだ!』
『地域の企業がどれだけ助けてくれるか、わかってない!』
当時の私は、正直ピンときてなかった。
だけど、数年後、あの震災が起こった。
「ガソリンが手に入らなくなったとき、スタンドの社長さんが言ってくれたんです。
『一見さんには売らない。
でも、地域に貢献してきたところには、ちゃんと裏から入れてあげるから。』
それで、うちの送迎車は一度も止まらなかったんです。」
そのとき、初めて胸に響いた。
「あぁ、母が言ってたのは、こういうことだったんだなって。」
それからです。
私が、本当に“地域”を意識するようになったのは。
許して、笑って、また一緒に──家族のかたち
「うちの主人ね、すぐ女を作るんですよ(笑)。」
さらりと笑って言うけれど、その道のりはなかなか波乱万丈だった。
「もう2回、女のところに出て行きました。
今はね、いい人になってるんですけどね。」
一度は、7年も家を空けたことがあった。
その間に、主人の相手にも会ったことがある。
「やっぱり一応、本妻だって言っておこうと思って、呼び出したんですよ。
10分くらい遅れてきたかな。
最初は、『奥さんがいるなんて知らなかった』って言われると思って、こっちもセリフとか色々用意してたんですけど、
最初から『奥さんがいるの知ってました』って言われて。」
「えっ、シナリオと違うじゃん!」って、心の中でツッコんだ。
「ちょっと待って、話を切って、まず座って、って言いましたよ(笑)。」
よくよく話してみると、その女性、実は自分と似たタイプだった。
もし居酒屋で隣に座ってたら、「この子と気が合うかも」って思うような、そんな人だった。
「だからね、最終的には、主人に任せたんです。
7年間、その人と付き合ってたみたいだけど。」
そして、時が流れたある日。
娘を通して、思いがけない連絡が入る。
「お父さん、帰りたいって。」
それを聞いて、私は娘に言いました。
「『帰ってきてほしい』って、伝えて。」
帰ってきたときには、素直にこう言いました。
「パパ、おかえりなさい。」
「仕返しはこれからよ」って、冗談まじりに思いながら(笑)。
それから10年。
少しずつ、いや、だいぶ、いい人になりました。
***
いろんなことがあったけれど、
怒るよりも、笑って、許して、また一緒に歩いていく。
それが、私たち家族のかたちです。