海賊と呼ばれた男

海賊と呼ばれた男

―昭和を駆けぬけ、海を相手にした89歳の男の人生記――

この物語は、榊住健で家を建てた一家の“おじいちゃん”
髙山さん、89歳の人生を綴ったものです。
ご家族が建てた新しい住まいの奥で、静かに日々を過ごす彼には、
壮大な海と、激動の時代を生き抜いた物語がありました。

「うちのおじいちゃん、海賊みたい」
孫がそう語ったその人は、かつて大手水産会社の船に乗り、世界の海を股にかけた男であり、
時には冷徹な市場の現場で命がけの取引を仕切る“海の仕事人”でもありました。

波にも、上司にも、理不尽にも屈しなかった男。
その背中に、どれだけ多くの怒りと、誇りと、哀しみと、笑いが詰まっていたのか。
孫が「海賊みたい」と言ったのは、きっとそのすべてを感じ取ったからかもしれません。

ここに、ひとりの男の人生を綴ります。
時代に翻弄されながら、決して流されなかった、ある男の物語です。
どうぞ、最後までお読みください。

第1章:エイプリルフールに生まれた男

昭和11年4月1日。
髙山さんは、高知県にある母の実家でこの世に生を受けた。
戦争の足音が徐々に近づいていた時代。父はすでに出征しており、家にはいなかった。
父不在の幼少期を過ごした髙山さんは、数年後、関東へと移り、宇都宮から浦和へ。
そこで彼の少年時代は育まれていく。

宇都宮にある幼稚園に入り、やがて浦和の麗和幼稚園に。
以降、小中高と浦和の街で学び、走り、青春を過ごすことになる。
父はというと、終戦前は中国で事業に挑戦していた。
アルミやジュラルミンの工場に関わり、最初の2年ほどは送金も順調だった。
だが戦況が悪化し、連絡船が次々と沈められ、仕送りは途絶えた。

「薪が買えなくて、ふすまも障子も燃やした。雨戸まで焼いた。冬は吹きさらしだったなあ」
幼い髙山さんは、二軒長屋の暮らしの中で、
家じゅうの建具を燃やして炊事をするという現実を体験する。

終戦直後、父がようやく軍隊と共に帰還する。
しかしその父は、安定を求めず、自ら事業に挑む道を選ぶ。

醤油会社を立ち上げるも、キッコーマンの勢いに押されて頓挫。
化粧品会社に転身するも、またしても資生堂の壁に阻まれる。
最後は電電公社に入り、組合を立ち上げて活動するが、病に倒れ、
髙山さんが高校を卒業する頃にはこの世を去っていた。

「父は常に、どこかに賭けていた人だったんだろうな」
そう髙山さんは静かに語る。

第2章:“戦争”と“父との別れ”、そして働く少年時代

髙山さんの人生において、“戦争”は決して遠い歴史ではなかった。
父が事業の夢を追って満州に渡ったのは、大東亜戦争が始まる少し前のことだった。

当初は順調に送金もあり、家族の暮らしは支えられていた。
だが戦況が悪化し、連絡船が相次いで沈められるようになると、
終戦までの1年は、父からの音信がぷっつりと途絶えた。

薪を買う余裕もなく、家中の障子や雨戸を燃やして食事をつくった。
冬の寒さに耐えるため、蚊帳を吊って風をしのぎ、吹きさらしの家で暮らした。
それでも、家族は生き延びた。

「親父が戻ってきたのは、終戦の翌月のことだった。軍隊と一緒に引き上げてきた。逃げるようにして帰ってきたって感じだったな」

父は、かつて勤めていた勧業銀行に戻ることはなかった。
満州での経験や挫折を胸に、再び“挑戦者”として自らの道を切り開こうとした。

野田で醤油会社を立ち上げるも、キッコーマンの波に飲まれて失敗。
大阪では化粧品会社を興すが、それも大手に押されて頓挫。
最後は、電電公社の工事部門にたどり着き、そこから労働組合を立ち上げる。

「中学3年のときだった。親父の胃潰瘍の手術の後、呼び出されて“持って3年”だって医者に言われた。
その言葉がずっと心に残ってる」

進学を控えた高校時代、父は他界した。
大学進学を志すも一度は失敗し、夢は遠のいたかに思えた。
姉が大学助手として独り立ちし、プログラマーとして働くのを見届けた後、再挑戦する決意を固めた。

「それまでは、ドカタで食いつないでいた。ボートレース場やオートレース場で、担ぎ屋をやって、60キロのボートを運んだ。オートレーサーにならないかって誘われたこともあった」

戸田のボートレース場や川口のオートレース場で働いた。
ボートの担ぎ屋――60キロもある舟を、肩で担いで運ぶ重労働だった。

「ある日、“お前、オートやってみるか?”って誘われたんだ」

当時のオートバイは、125ccの「トライアンフ」。
押しがけでエンジンをかけるやつだ。
左回りのカーブでは、ハンドルを逆に切って車体を起こし、
左足には鉄板を履いて地面を蹴りながら走る。まさに命懸け。

「あんなの、無理だって思った」

そうして髙山さんは、もう一度“大学に行こう”と決意する。

第3章:函館での飢えと怒りと、焼酎にまみれた青春

北の大地に渡った髙山さんが選んだのは、北海道大学の水産学部だった。
遠く札幌の寮で学生生活を始めたものの、順風満帆とはほど遠かった。

「とにかく金がなかった。奨学金とアルバイトだけが頼りだったけど、函館に移ったらバイト先なんかないんだ」
水産学部の3年次からは函館での実習が始まる。

船に乗り、実地で漁業の技術を学ぶ──理想的なカリキュラムに見えるが、
髙山さんにとっては、船酔いとの闘いだった。

「初めて実習船に乗った時、情けないくらい酔った。これじゃ船には向かないな、って思った。でももう学部は決まってるし、やめるわけにもいかない」

追い打ちをかけたのは、生活費だった。
冬の函館で、学生寮に泊まりながらの生活。
ある日、「家庭教師のバイトあります、希望者は学務課へ」との告知を見て、駆けつけた。

「10人ぐらい集まったかな。でも採用はひとり。決め方は“あみだくじ”。それを聞いた瞬間、頭にきた。これが“公平な選考”かって」

あみだくじに外れた髙山さんは、やり場のない怒りを抱えて寮に戻った。
そして思いついたのは、札幌への“脱出”だった。

「もういい、札幌に戻ろうって思った。金になるもんは全部質屋に入れた。学生服、布団、なんでもだ。
残った金でラーメン屋に寄って、焼酎を2〜3杯あおって、それでも気が晴れなかった」

だが、その怒りが、彼を突き動かす。

「腹の虫が収まらないから、その足で学務課に怒鳴り込んだんだ。“あみだじゃねえか!”って。そしたらおばさんの職員が出てきて、“今回は終わったことだから”って。
“で、あんた、これからどうするの?”って聞かれたから、“札幌に戻る。授業なんか出ねえ、生きる事の方が先だ”って言ってやった」

札幌での暮らしは、極寒と飢えと屠殺場の匂いにまみれていた。
行き着いたアルバイトは「馬の毛切り」。
屠殺された馬の皮から毛を刈る作業で、塩漬けされた毛皮からは異臭が立ち上る。

「長靴も自前じゃ買えない。寮のゴミ箱をあさって、穴の空いてないのを片方ずつ探す。履くと左右の長さが違うんだ」

そんな格好で通う仕事場からは、血と肉の匂いが染みついて帰ってくる。
電車では誰も隣に座らない。風呂には最後に入る。
寮では「髙山は死肉の匂いがする」と言われた。

1月中旬、家庭教師の採用通知がようやく届いた。
その時、髙山さんはようやく「人間らしい暮らし」ができるようになる。

「寮費3,000円、奨学金3,000円、家庭教師で3,000円。ようやく回るようになった。そこからだ、真面目に勉強しようと思ったのは」

第4章:赤線だらけの卒論、そして“海”へ

家庭教師の収入で少しは生活が安定した髙山さんは、心を入れ替えて勉学に打ち込むようになる。だが、それでも彼の道は平坦ではなかった。

「俺はね、バイトと奨学金で生きてるから、時間がないんだ。家庭教師から帰ってくるのが9時か10時、それから論文の実験だ」

テーマは「人口魚礁の研究」。
サーモコン(セメント系発泡材)を使って魚の隠れ家を人工的に作るという内容だった。
鮒を水槽に入れて、音や電気ショックを与え、どの構造に逃げ込むかを調べる。
昼は働き、夜は魚と向き合う――そんな日々だった。

「寝るのはいつも午前2時。実験室でひとりデータをとって、卒論を書いて、提出する。でも返ってくるのは赤線だらけ。真っ赤に染まってるんだ」

他の学生が年末に卒論を終える中、髙山さんだけは何度出しても突き返される。
6人中、彼の論文だけが受理されないまま、年が明けても状況は変わらなかった。

「卒業できねぇかもしれないって、本気で思った」

もはや自暴自棄になりかけた頃、彼はゼミ室の隣の部屋の応接セットに目を向けた。

「卒業できなかったら、せめてこの灰皿だけはもらっていくかって思ってたんだ(笑)」

教授の黒木敏郎――水産学部の中でも厳格で知られる人物だった。
彼の指導の下で、髙山さんは極限まで鍛えられた。

そして、卒論がついに受理されたのは、卒業式の前日だった。

「最後の提出のときは、もう中身も見ないで“よし”って。あれはありがたかったな」

ようやく学生生活を終えた髙山さんのもとに、次の舞台が待っていた。
就職先は、大手水産会社。
当時、遠洋漁業の最前線にいた巨大企業だ。

出港前、大学を去る時に黒木教授から言われた言葉が、今でも記憶に残っている。

「地球の資源は世界人類のものだ。それを“設備投資したから”という理由で勝手に奪っていいのか?
漁業とは何か、よく心して働きなさい」

「何だよ偉そうに、って思ったけれど、あの言葉は…今思えば重かったかもな」

こうして、貧しさも怒りも、すべて糧にして――
髙山さんは、ついに海へと旅立った。

――後日、日本海で密猟スレスレの仕事をしていた日、思い出すのは黒木先生の言葉でした。
先生は北大から東大に転勤されていたので、東京で久しぶりに挨拶に行き話を伺いました。
私が結婚する時には、お仲人をやっていただき、その後の生活に於いても人生の師匠として、先生が亡くなるまでご指導いただきました。

第5章:魚と、海と

卒業後、髙山さんが乗り込んだのは、大手水産会社のマグロ船だった。
遠洋漁業の花形とされる職場だが、その実態は、過酷そのものだった。

「最初に乗ったのは、99トンのマグロ船。エンジンは400馬力。
氷や餌、縄や資材を船底ギリギリまで積んで出港する。吃水スレスレだった」

出港してすぐに始まるのは――地獄のような船酔い。

「日本近海が一番荒れるんだ。北緯20度くらいまでが一番つらい。
出たその日から船酔い。反吐が出るってのはこういうことかって思った」

それでも3年半。
海に出続け、波に揺られ、ようやく身体が海を受け入れるようになる。

その後、髙山さんは“母船”と呼ばれる冷凍線に乗り換える。
そして、時代は“母船式事業”へと移行していった。

母船式とは、冷凍設備を持つ大型母船の周囲に複数の漁船が集まり、
魚を運び込みながら操業するスタイル。合理的に見えるが、思わぬ落とし穴があった。

「当時はまだ冷凍技術が低くて-20℃で凍らせると、マグロの細胞が壊れて真っ黒になるんだ。
解凍したら、もうベロンベロン。とても刺身にはならない」

せっかく南洋で獲った極上のカジキやマグロも、
日本に戻る頃にはソーセージの原料にしかならなかった。

「うまいところは全部、海の上で食っちまった。
バチマグロのトロとか、新鮮な刺身は日本じゃ食えないね」

食料事情は悪くなかった。
船上では栄養もたっぷり、体重もぐんぐん増える。

「入社時は60Kgを切っていた体重も88キロまで太ったよ。階段の上り下りで体がプルンプルンするくらいだった(笑)」

フィジー、タヒチ、マーシャル諸島……
髙山さんが訪れた海は、数えきれない。
だが、母船式の非効率さが明るみに出ると、この事業はわずか4年で終焉を迎える。

そして、彼に新たな命令が下る。

「丘に上がれ。築地に行って調べてこい、と言われた。
なぜマグロが売れないのか、現場で見てこいって」
ここから、髙山さんの“漁撈マン”としての、もうひとつの物語が始まる。

高山さんの乗っていたマグロ船の舵

第6章:焼津に賭けた改革と、築地で覚えた勝負勘

母船式事業が終わり、マグロの品質問題が浮上した。
冷凍技術の未成熟によって商品価値が落ち、現場の漁師たちの努力は報われなくなっていた。
そこで髙山さんに下された指令は――築地市場の実態を“見てこい”。

「言われた通り、築地のセリに毎朝通った。朝6時からセリが始まるから、始発で行って、魚の値段のつき方を全部見てまわった」

尻尾の輪切りを見て、脂のノリを判断する。
腹の色やツヤ、筋の入り方を見て、仲買人は“瞬時に”価格を読む。
競り人たちは、焼酎をあおりながら駆け引きの腹を探る。

「連中、朝っぱらから焼酎かっくらって“相場”を読んでるんだ。俺も覚えたさ、全部な」

誰もやりたがらない“泥臭い仕事”を、髙山さんは黙々とやった。
その経験が、のちに大きな武器となる。

「市場の連中と顔をつなぎながら、魚の値段の付け方を覚えた。
市場では、生マグロに寄生虫が溜まっていることがある。
その周囲の肉は溶けてしまい、刺身には使えない。
仲買人がそれを見つけて「これ、見てくれ。値引きしてくれよ」とやってくる。
だが、伝票はもう回っていて、値引きはできない。
だから競り人は「今回は勘弁してくれ。次はうまくやるから」と言って収める。
髙山さんは、そういう現場のやり取りをすべて、黙って観察し、覚え込んでいった。

「仲買人と競り人がどう駆け引きしてるのか、全部肌で感じた。あれは、築地でしか学べない財産だった」

現場に通い詰めた髙山さんは、会社にこう進言した。

「焼津に漁撈部を移しましょう。船も、漁師も、商品も近くにいないと動かせない」

この一言が、大手水産会社の物流と経営の流れを大きく変えていく。

焼津に拠点を移してからは、セリ場に通う日々が始まった。
新聞を読み、セリ場の空気を読み、勝負に出る。

「朝5時に会社に行って、5時半にはもうセリ場にいた。
冷凍マグロを1船買いする取引をやっていた。だいたい3億5千万くらい。1時間の勝負だ」

あるとき、焼津の“おっさん”たちがこう言ってきた。

「髙山さん、次に入稿する船のマグロ、こっちで買わせてくれ」

3億を超える大口買いだ。
専務にかけ合い、公開入札に踏み切る。
髙山さんは自らの責任で入札を仕切った。

「3000万高い入札が入って、落ちたときは気持ちよかったよ。“ざまあみやがれ”って(笑)」

入札は成功。
専務も認め、次もやっていいぞ、とゴーサインが出る。

「“2回目で失敗したらおしまいだぞ”って言われたけれど、
商売ってのは、勝てば官軍なんだ。儲けたよ、がっつりね」

だが、成功は新たな敵を生む。
築地の荷受会社が「髙山を辞めさせろ」と乗り込んでくる。

「そしたらうちの専務が言ってくれたんだ。“子会社の人間が、うちの部長を首にしろとは何事か!”って。
俺は守られた。あの時は本当にありがたかった」

信頼と実力、現場の汗と数字の結果。
そのすべてが、髙山さんを支え、動かし、そして守っていた。

第7章:独立と啖呵と、その後の夢

市場を見て、漁を見て、人を見て――
髙山さんは、海も、陸も、数字も、嘘も、すべてを飲み込む仕事人になっていた。

だがその矢先、遠洋漁業を取り巻く環境が大きく変わっていく。
「200海里問題」――各国が自国沿岸から200海里までの排他的経済水域を主張し始め、
日本の漁船が自由に操業できる海域は一気に狭まっていった。

そんな中、会社の役員から髙山さんに「これからは、会社の大黒柱になれ」との話が持ちかけられる。返事をしない髙山さんに「何か言いたいことがあるのか?」

定時後、役員室に向かった髙山さんは破たり始めた。

「200海里って、370キロですよ。マグロはそんな沖には行かない。太平洋のど真ん中にマグロなんていないのです。今だった領海のスレスレで獲っているのが現状なんです。マグロは植物プランクトン、動物プランクトン、小魚を追って動く。全部200海里の内側にいることがいいのですから、遠洋漁業の時代は、もう終わりですよ。」とマグロの食性、生態系までを持ち出して説明した。

その役員は、黙って聞いていた。

「独立させてください。代表権があるなら、私は自分の責任で全てやります。」

その場での即答はなかったが、数日後、髙山さんは水産会社の設立を託された。

独立から4年が過ぎたころ。
取引先の一部が不正を働いていることを知る。

不正は古くなったマグロ船の売値から、100万円ずつ抜いていた。これを知って、こういうことでは、事業はやってられないと、辞める決心をした。

一度は海から離れようとした ―――だが、また面白い話が舞い込んできた。それが、“取締船”の話だった。

違法操業を監視する水産庁の業務を、民間が担うという計画。

元・追われる側だった髙山さんが、今度は“追う側”になる ―――皮肉で痛快な逆転劇だった。

新潟で資金を集め、取締船ビジネスに乗り出す。
そこには、いつものように“笑いながら本気”の髙山さんがいた。
正面からぶつかり、時にごまかし、でも逃げなかった。
それが、髙山さんという“海賊”の生き方だったのかもしれません。

エピローグ:物語は、いま、家の中にある

かつて、1年のうち家にいられるのは、わずかだった。
航海に出て、港を転々とし、海と仕事に身を捧げてきた男。
髙山さんは、「家」という言葉とは無縁の人生を歩んできた。

「夏に帰ったら、カミさんと子どもたちは隣の家(カミさんの実家)にいた。
俺が帰ってくるときだけ、三浦の本拠地に来る。普段は実家にいた。
俺は漁でずっと日本海に行ってたしね」

「その当時、建設会社に任せっきりで建てた家は石の家で、俺の理想だったけど、頼んだ業者の「大丈夫です!」の言葉を信じて建てたその家は、雨漏りが絶えなかったんだ。」

「サーモコンってやつで造ったんだけどね、防水が甘くて…。
屋根、ベランダ、手すり……全部から漏れるんだよ。
何度直してもダメだった。俺はいないし、カミさんが大変だったと思う」

そんな経験を経て――
今、髙山さんは、息子が建てた木の家に暮らしている。
設計・施工は榊住健。息子が思いを込めて建てたこの家に、いま家族とともに過ごしている。

「この家? 面白い家だよ。冬は暖かくて住みやすいしね。夏は熱気を吹き飛ばしてくれる。いい家だよ」

時間は流れ、家族のかたちも変わった。
いまでは台所にも立たなくなった。

「昔は一人暮らしみたいなもんだったから、掃除も洗濯も全部やってた。
でも今は、カミさんが台所に立ったら、俺は入らない(笑)。
あれこれ言われたくないからね。言う通りにしてるよ、ちゃんと」

そう言いながらも、表情にはどこか安らぎがある。
かつての石の家には、白灯ランプや船の道具、海の思い出が詰まっている。
だが今、その思い出たちは、過去の棚の上で静かに光っている。

「かつての石の家に帰ろうかって話もあったけど、もういい。
今の生活、離れがたいんだよ。
カミさんの言う通りにしてないと、生きていけないのよ(笑)」

――人生は、航海のようだ。
地図のない海を渡り、嵐に耐え、ときに笑い、ときに怒る。
海の男は、港を転々としながら、ついに“終の住処”へとたどり着いた。

いま、髙山さんは家にいる。
そして、その家には、物語がある。

家づくりに、物語を。
榊住健が掲げるこの言葉は、
まさに髙山さんの家で、静かに、確かに、生きています。

――海に生きた男が、今、静かに“家にいる”という人生を味わっています。