この家と、もう一度始めてみる。
—23年後に気づいた暮らしのかたち。

この家と、もう一度始めてみる。<br>—23年後に気づいた暮らしのかたち。

この家と、もう一度始めてみる。——23年後に気づいた暮らしのかたち。

日高市の高台に建つこの住まいは、視界が大きくひらけた場所にあります。
写真の中央には、遠くさいたま市大宮方面の街並みが望め、空と街がゆるやかにつながる景色が広がります。
1階の屋外デッキと2階からの眺めは、ほぼ180度のパノラマ。時間帯や季節によって表情を変える風景が、日々の暮らしに静かな豊かさを添えてくれます。
そしてデッキの下に広がる傾斜地は、家庭菜園として活用。景色を楽しみながら土に触れる時間が、暮らしの一部として自然に溶け込んでいます。

プロローグ

榊住建では、年に⼀度「建てた家のメンテナンス」を⾏う「家検(かけん)」を実施しています。
今回の記事は、その「家検」の際にオーナーさまから伺ったお話をもとに構成しました。

お話をお聞かせくださったのは、23年前に埼玉県の⽇⾼市に家を建てたご夫婦。
ご主⼈はドイツ出⾝、奥さまは⽇本⼈です。
時を重ねたからこそ語れる、「暮らしの実感」と「家づくりの気づき」が詰まっています。

どうぞ、最後までご覧ください。

⽇本という存在に、惹かれた若き⽇

「1989年。私は⼤学2年⽣で、哲学と地域科学を学んでいました。」

⽇本に関⼼を持ったのは、その少し前からです。
当時の⽇本はバブル景気で、世界的に“ジャパン・アズ・ナンバーワン”という⾔葉が⾶び交っていた。
でも、徴兵制を終えたあと、大学で東アジアについて学んでいても、学生の関心事に⽇本はほとんど登場しない。
むしろ中国の天安門事件に終始していた。

“なぜ、こんなにも重要な国が、⾒過ごされているのだろう?”

第⼆次世界⼤戦の記憶さえ、ヨーロッパ中⼼の語りで、⽇本は脇役以下だった。
それらすべてが妙に気になった。
そこで、私は⽇本語を学び始め、⼼を決めました。

「将来は、この⽅向でいこう。」
真⾯⽬に勉強し、奨学⾦を得て、慶應義塾⼤学への交換留学⽣に選ばれたのが1990年のこと。

“⽇本という国を、⾃分の⽬で確かめたい。”

国費での⽀援を受けて、私は初めて⽇本に渡りました。

デッキは、パノラマの眺望とリビングをゆるやかにつなぐ場所です。

暮らしの基盤が、⽇本に根づいていった

「翌年、1991年に結婚し、92年にはドイツへ戻りました。」
4年のドイツ⽣活を経て、96 年に再び来⽇。
今度は博⼠課程に進むためです。

この頃、⻑男が⽣まれました。
結局、奨学⾦だけでは家族を⽀えるには不⼗分となり、私は⽇本での永住を決意し仕事に就きます。

“あくまで⼀時的、のつもりだったのに。いつの間にか、⽇本が帰る場所になっていた。”

大手総合商社系のシンクタンクに就職し、インハウスコンサルタントとして地政学の知⾒を活かしながら、主に幹部向けにEU や NATO の拡⼤など、欧州
に関するブリーフィングレポートの作成に従事するようになりました。

⽇本社会は昨今より、まだ外の世界に⽬を向けていた時代です。
⽇本⼈の若者も積極的に留学していた。
私のような外国⼈に対しても、興味を持ち、好意的に接してくれる⼈が多かった。

「それに応えたくて、私は⼀⽣懸命、⽇本語や⽂化を学びました。」

今思えば、それは⾃分なりの“覚悟”だったのかもしれません。

遠くの家族に思いを馳せながら

「この30年間、⽇本で暮らしてきました。ドイツには、10回ほどしか帰っていません。」

私たち夫婦は共働きです。
私は⻑めの休暇が取れるけれど、妻はフリーランスの校正者なので、せいぜい 1 週間が限度。
いつも私が先にドイツに帰り、後から妻が合流するーそれが私たちのスタイルです。

つい先⽇、弟から⼀本の電話が⼊りました。
「⽗が倒れた。今、集中治療室にいる。」

⺟が深夜、いつものように聞こえていたはずの⽗のいびきが消えたことに気づいて、救急⾞を呼んだの
だと聞きました。

“⾃分は、こんなに遠くにいていいのだろうか。”

そんな思いが、⼀瞬、胸を締めつけました。

若い頃の私は、もっと違う視野で⽣きていたように思います。
商社のシンクタンクに⼊って、給料も満足いくほど上がり仕事も充実していた。

「世界は広い。私を待っている。」
そう信じて、意気込んでいたあの頃。

けれど今は、違う。
家族と両親。
世代を超えて、絆を持ち続けることのほうが、ずっと⼤切に思えています。

“⽂化的なルーツよりも、⼈間関係のルーツのほうが、はるかに⼤きな⼒になる。”

⽗は今、83歳。幸い、元気に暮らしている。
趣味のサイクリングも続けている。
それでも、いつ何があるかわからない年齢です。

だから私は今後、年に⼀度、必ず会いに帰るようにしていました。

1階リビングの漆喰の壁には、竣工から20年が経った今も、ご家族の手形が残されています。

寝るだけの家だった

「この家を建てたのは、23年前のことです。」
場所は日高・飯能市境の⾼台。⾃然に囲まれた静かな住宅地でした。

職場が都心にあって通勤に時間がかかる私たちにとって、家に求めたのは“機能”でした。
「お客様を招くような家にする必要はない。⾃分たちが働きながら、無理なく暮らせる家をつくろう。」

朝7時に出て、夜8時に帰る。
そんな⽣活を前提にした家づくりでした。

「飯能駅は始発に乗れば座って通勤できる。」
そんな理由もあって、この⼟地を選びました。

家が完成したときは、もちろん嬉しかった。
それでも、家で過ごす時間といえば、⾷事をして、寝るだけ。
⽣活に追われる⽇々のなかで、住まいの良さを感じる余裕などなかったのです。

“なぜ、もっと想像できなかったのだろう。”
“なぜ、もう少し⽴ち⽌まって考えなかったのだろう。”

そう思うことは、今でもあります。

テレワークが変えた視点

「コロナ禍で、働き⽅が⼤きく変わりました。」

テレワークが導⼊され、出社は⽉に10⽇ほど。
家で仕事をする時間が増えたことで、ようやくこの家と向き合うことができました。

朝の光が、どこから差し込んでくるか。
窓を開けたとき、⾵がどう抜けていくか。
⼀⽇をこの空間で過ごしてみて、初めて知ったことがたくさんありました。

“この家は、よくできている。”
“ここに建ててよかった。”

そう思えるようになったのは、建ててから20年も経ってからでした。

⽇常に追われていた時期には⾒えなかった景⾊が、いまは⾒える。
それが、時間を重ねるということなのかもしれません。

庭と畑に向き合う時間

「ずっと気がかりだったのが、庭と約100坪の畑でした。」

⼿をかける時間や体⼒にも限界があり、草は伸び放題。
⾍も多くて、いつしか“⽬を背ける場所”になっていました。

通勤の朝、スーツ姿のまま庭を横切りながら、
「今、時間さえあれば⼿⼊れできるのに」と、何度思ったことでしょう。

“せっかく整えた庭なのに。”
“いずれやろう、と思って20年経ってしまった。”

今では、週末のほか、朝方にテレワークを開始する前やお昼の休憩時間にもなるべく庭に出ています。
インターネットで調べた知識をもとに、植物の⼿⼊れをし、⾍と向き合い、⼟に触れています。

家を建てたとき、残⼟を使って法地に段々畑を造成。
平地の庭にはウッドデッキも設けた。
その空間が暮らしの⼀部として息をし始めました。

“ようやく、始まった気がする。”

お庭に実ったブドウを見せてくれました。

眺めとともに暮らす

「ここは、⾼台にある⼟地です。」

朝、⽬覚めてブラインドを開けると、多峰主⼭が近く⾒えます。
雲取⼭も、晴れた⽇にはくっきりと輪郭を描く。
冬の空気が澄んだ時には、地平線に筑波山脈も眺められます。
夏には、遠く川越⽅⾯の花⽕⼤会の光が届きます。
春には、山⼀⾯に桜が咲き誇る。まるで、家が花に囲まれているかのような⾵景です。

「ここにしてよかった。」

そう思えるようになったのも、やはり最近になってからのことです。

もちろん、⾃然が豊かであるということは、共に暮らす“隣⼈”もまた多いということ。
イノシシ、ハクビシン、カナブン、⻘⼤将。
1キロほど先には「熊注意」の標識もあります。

“それも、ひとつの豊かさだ。”
“ここは街ではない。⾃然の中で⽣きている。”

そう感じるようになってから、⾍も⿃も、以前より怖くなくなりました。

2階からのパノラマ夜景です。川越の先に、埼玉市街の街のあかりが広がります。

家とともに続く、これからの物語

「他⼈のためでも、⼦孫のためでもなくていいと思っています。」

私たち夫婦が、納得できる暮らしができれば、それで充分。
家を構えたときには考えていなかったような思いや、感覚の変化が、今の⾃分をかたちづくっています。

“この家と過ごす時間が、これからの⼈⽣を育ててくれる。”

庭や畑の⼿⼊れも、無理のない範囲で。
重荷にならないように⼯夫しながら、少しずつ⼿をかける。
⾃分でできなくなる⽇が来たら、そのときに考えるつもりです。

「⽊と漆喰でつくったこの家は、呼吸しているような存在です。」

23年前に建てた家だけれど、物語はまだ終わっていない。
むしろ、今ここからが“はじまり”なのかもしれません。

“もう⼀度、この家とともに、暮らしをつくっていこう。”と思います。

この日は家検(かけん)にあわせて、小工事とメンテナンスを行いました。